2011年4月14日木曜日

人生と成長(修正加えていきます)独自理解なので簡易になるべくしたい

お肉を食べなくなってもう、半年以上経つけど、ものすごい肉が食べたいという気持ちはなぜか起きない。食べられるだけでありがたいと思いだしてから、食に対するこだわりが少なくなった。(だけど、肉を食べないってのがこだわりなのかもしれない?)

主に食べるものは、穀物類だとか、野菜だとか、魚介類です。魚介類は、食べるけど、これって肉に入るものなんだろうか。(説明は、今は省きますが、簡単にいうと「魂の違い」ほ乳類動物とは心を通じ合うことができますが、魚とはまったく魂の性質が違うというか、どちらかというと、虫や魚類は、人間と心を通じ合うことができません。どちらかというと、生き方が機械的に近い。あったとしても、エネルギー体の要素をもった魂=生命に近いのだと思います。だから、感情もほぼ機械的に近い)

食べられる事が感謝だと感じる。贅沢三昧好きに食べてきた時に、思わなかったことも、思うようになった、嫌いな食べ物にしても、食べられる事がありがたいという感謝の気持ちでたべれば食べられる。おいしくないとは、感じなくなったりすることもある。

心の変化一つで、嫌いな物も感謝して、ありがたく食べられる。精神的な作用の深さを感じさせられているように思います。

僕は、肉を食べたい人は食べたらいいと思う。やめるべきだとも思わない。今まで僕も散々食べてきました。精神的な事や独自の経験、お釈迦様の考え方を、学習していくにつれて自然と肉を食べたいという気持ちもなくなってきました。自然にまかせればいい。

この世に生をもって、なぜ生まれ死んでいくのかの本質をしれば自然と心の向きが変わるのではないかと思う。心がかわれば、生き方も変わるのではないであろうか。

苦しみさえも、脱することができるのだと考える。お釈迦様は、この世は苦に満ちていると、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦八苦で満ちていると。

その心は何から生まれるかお釈迦様は考えました、煩悩があるから苦しみが生まれるのだと。また、煩悩があるのは、菩提(涅槃)の悟りを開き苦しみから脱した状態に成るために必要なのだと。

(愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離する苦しみ)
(怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ)
(求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られない苦しみ)
(五蘊盛苦(ごうんじょうく) - あらゆる精神的な苦しみ)

宇宙のことについても、人間自分の尺度てものごとを決めすぎる、ビックバン理論も、爆発から拡張されてこの物質世界ができたというけど、そもそも、最近の科学でも仏教でも、本当の真理、宇宙の正体もそう、人間自身の本当の向かうべき道もそう。

始まりもなければ、終わりもない。このことは、唯物的に物事を考える人にはわからないだろう。目に見える物で、ある、ないを判断する人にとっては。

もともと、仏教的にいうと、色(物質)に本質があるのではなく、空(見えない物)に本質があることをしることである。色は、ある、ないで判断されるだろう。これが、唯物的考えで、そもそも物質の出来る前の生産過程に本質、見えない(空)の世界がある。

話は、オカルトっぽくなるが、幽霊という存在は、丁度、物質界と幽界の狭間の幽現界にそんざいする。だから、幽霊は、よく目撃されたりするのは、物質界に近い世界に存在するから、コンタクト(周波数)が合いやすいから、昔から、幽霊をみたなど目撃する人がいる不思議世界となって存在しているんだろうね。

この話は、唯物的にしかというか、実体験したことない人にはその存在にはあまり縁がないと思うのでややこしくなるというか、理解の外になって頭が拒否反応をおこしてしまう。だから、考えなくてもいいかもしれない、体験したときにわかることだろうと、それは、生きている時にわかるか、死んだときに初めてわかるか、それは人それぞれです。

とりあえず、心というものはいったいなんなのか、心一つ変化しただけで、世界の見え方、感じ方が、変わるように感じます。なので、狭い世界だけをみるのではなく、色々な人と接して色々経験して自分なりの答えを見つけるのも良いでしょう。

それは、自分にとっての学びであり、また他の人は他の人で学びがあるのだと思います。前世で真理と心を磨くまでいかなくても、かならず上昇していくことになっているのです。

始まりがなく、終わりがないという世界は絶えず向上していく、それが真意なのです。果てはありません。宇宙の仕組みを本当にしれば、始まりがなく、終わりがないことにいつかたどり着くでしょう。

たとえ、この世で過ちや、怠け、本当の真意を忘れて不本意な結果に終わったとしても、かならず悔いあらためて反省すれば、やりなおしの機会はかならず与えてくださる。

本当に心から悔い改め反省すれば、自ら償いたいと思うのが人間です。険しい道筋になるかもしれませんが、かならず、一人一人成長して上昇していくはずです。

遅い、早いはあるにしても・・・・。そういう、意味で、人生は答えはありません、自分で見つけていくしかないのです、真理にたどりつくかつかないかも、それは、自分で理解して心から気づいたときに初めて、この世は、愛からなりたっているということに気づくはずでしょう。

自分の道を人生の中でみつけてください、その中でそれぞれ経験したことがあるでしょう、その中ですこしづつ学び(愛)真理に近づいていくのです。だから、輪廻転生という仕組みがあるのです。

主も、まちがいながらの人生でもがき苦しみそして、真理をすこしづつしっていくのです。頭で考えるのではなく体験を通してです。主だけじゃなく、皆さんもです。

楽の中では人は、楽のありがたみを体験することもなければ、平和安泰の世の中では、悟りなど得ることもないでしょう。この世は、この「苦楽」という二つ相反するものがあるからこそ、悟り気づかされ本当に大切な物は何かを知っていくのでしょう。

すべての物事は、ある、ないの二見にとらわれず、その見えない本質は何か真理は何か、気づいていってください。気づき始めているひともいるでしょう。まだ、その途中でもがいている人もいるでしょう。

でも、かならず皆、上昇して成長していくのです。ありのままを受け入れて、今できること、今与えられたものに感謝して、出来ることをすれば良いのだと思います。

人生とは、宿命と運命があります、これを私は、こう理解しています。宿命→この部分はドラマで言ったら台本です。しかし、運命の部分は、貴方が俳優として、その台本の中でどう演じるかなのです。

演じてによって、人に感動させられるドラマになるかもしれません。まったく正反対で、全然人を感動させられないドラマになるかもしれません。

そこに、魂の成長の鍵が隠されているのかもしれません。どちらが、良いか悪いかなんてありません、悪ければ、正していけばいいのです。その部分が、前世出来なかったお題としての台本与えられまた、人生というドラマを演じていくわけです。

もちろん、人生の中ではもがき苦しみ、努力し、病んでいった人もいるでしょう。逆に、楽ばっかりの人生を選択して何の学びも得られなかった、それも学びの一つといってもいいかもしれません。

楽ばっかりの人生では、魂は成長しない、変化のない人生だったと、来世で悔い改め、台本をかえて生まれ変わり、また似たような台本で楽が多い物にも人に恵まれた環境の中でも、楽をせず、人を思いやり、慈しみ、生きていく人生を選択するかは、演じてしだいです。

(楽)その逆で、苦しみだらけの人生(台本)で心が折れてしまって、人をあやめたり、人を憎んだり、人を落とし入れたり、するのも演じて次第なのです。

しかし、そこで悔い改めてまた、苦しみだらけの人生(台本)でも、次は同じ過ちをしないと、けなげに生きて、前向きと、希望の光をともして生きていくことをしていくのかもしれません。それは、俳優(演じて)によって、変わってきます。

たとえ、前世で最低な人生をおこなって、人を恨み憎しみをしても、心から悔い改めれば、自ら償いといと思い、もっと過酷で苦労な人生(台本)を選んでこの世にうまれて、罪を償おうとするのだと思います。

それは、すべて真理を知るためだからです。上昇して、成長するためにこの世というのがあり、意味をなしているのです。

追記
人生で、辛い過酷な人生でも、信じて、人を憎まず、逞しくいきていった人には、愛を知るために、愛される喜びを知る人生(台本)を来世で選んでくるのだろうと思われます。前世が辛い過酷な人生だけあった分、愛の本当のありがたさを頭でしるのではなく、体験して感じとるのだろうと思うのです。

そこに魂の成長の意味が隠され、真理を知り、成長して上昇しつづけていくのです。

成長して、上昇していくってよくわからない?と思った人もいるかと思いますが、あの世の事について述べると、とても、理解しがたく難解だと思うのでここでは語りません。かえって、誤解されて認識されてしまうかもしれません。

人それぞれ、時期が来れば、自ら真理を求めたくなり自分で体験して、経験して学ばされる、学んでいくのでしょう。(例外は除く)